アヒルのイヌかき
可愛い、のどかな池のアヒル
・・・・・でも水面下では懸命に泳いでるよ
・・・・・進んでゆけるのは、故郷=ふるさとの風の記憶があるから・・・
遠い日のワタシ、周りのぬくもり。日が暮れるまで遊んでた。
あんなおやつをたべたっけな。
じっちゃま、ばっちゃまの言ってたこと。
暮らしの中に生き生きとあった伝承・・・・・
四季の祭り、行事、風物などなど。
なつかしい玉手箱からのお便りをおまちしております。

[パートII] [トップに戻る] [情報掲示板へ移動] [雲のスタジオへ移動] [留意事項] [ワード検索] [管理用]

『生きて死ぬ智慧』 ― 般若心経... 投稿者:中年おやじ 投稿日:2007/03/21(Wed) 23:45 No.20
宗教の話ではないですよ(最初に)。 最近、法事の席などで、一同で般若心経を唱えさせられる事が多い。
漢字の羅列。しかも「空」と「無」の文字が多いと感じるぐらいで、
りっぱな?中年に成長したが、意味は全く解らない全くのバチ有り者。
たまたま、ラジオで新井満氏の「自由訳」とやらを聞いて、柳澤桂子『生きて死ぬ智慧』と併せて、とりあえず斜めに読んでみました。
どちらも15分で読めてしまうのですが。。。
5千余巻にもなるという仏教経典のエッセンスを、たった262字で伝えるとされるものです。
< お聞きなさい 形のあるもの いいかえれば物質的存在を
 私たちは現象としてとらえているのですが
 現象というものは 時々刻々変化するものであって
 変化しない実体というものはありません
 実体がないからこそ 形をつくれるのです
 実体がなくて 変化するからこそ 物質であることができるのです>
人間を分子→原子と考えると、あなたが存在するところは、物質の密度が少し高いところ。
全ての原子は繋がっており、宇宙とも繋がっているということ。
過去、現在、未来。。。時空はどうなっているのだろう。
バカおやじには無理かなぁ。



Re: 『生きて死ぬ智慧』 ― 般若...  - 2007/03/29(Thu) 09:15 No.23  

我が強く、よく他者と口論になる私ですが、実体が無く変化する存在とすれば、我を張るのは滑稽なことかもしれませんね。我を張らず、智慧で語り、柳に風として固執せず、そんな私になってみたいです。

深い理を紹介して頂き、ありがとうございます。続編を是非お願い致します。



Re: 『生きて死ぬ智慧』 ― 般若... 中年おやじ - 2007/04/07(Sat) 07:04 No.24  

我様、こんにちは。 レスありがとうございます。
ご紹介した「生きて死ぬ智慧」(柳澤桂子著・般若心経の自由訳)のあとがきには次のようなことが書いてありました(以下、抜萃です)
〜 私たちは原子レベルできていて、原子が動き回っているからこの物質の世界が成り立っている。
宇宙を原子のレベルで見ると、自分やあなたの存在するところは少し原子の密度が高いかもしれません。
今まさにあなたの目の前に見える場所にも原子が密に存在するでしょう。
一面の原子の飛び交っている空間の中に、ところどころに原子が密に存在するところがあるだけです。
あなたも、わたしもありません。けれどもそこには存在するのです。
物も原子の濃淡でしかありませんから、それにとらわれることもありません。
一元的な世界こそが真理で、私たちは錯覚を起こしているのです。
宇宙の真理に目覚めた人は、物事に執着することが無くなり、何事も淡々と受け容れることができるようになる。〜
ミクロな世界で見ると自分は宇宙としっかり繋がっている“宇宙の一員”ですね。
生きているときも、死んでも宇宙の中に存在していることには変わらない。
マーフィーの法則も同じ事だと思います。“思い描いたことが現実になる”もそういうことですね。
釈尊の時代には原子のことはわからなかった。 当然、現代の我々の知らないもっと小さな世界が存在しているのかもしれない。
宇宙の壮大さに比べたら、ちっぽけな存在だけど、あなたも私も宇宙を構成するひとつ、みんなしっかりと繋がっている。
笑ったり、楽しんだり、怒ったり、悲しんだり。。。それも宇宙の中の出来事。
>>> 中年おやじの探求はつづくのであった。。。(^^ゞ



十三夜 投稿者:喜三郎 投稿日:2007/03/01(Thu) 21:42 No.19
私の村の辻に大きな石塔があり、そこに「十三夜」と刻んである。ずっと、この十三夜の意味がわからないでいたが、雲を観測していて、その意味がわかってきた。
十三夜はお産にさいして安産を祈願するものだった。月の13歳のことである。満月を対象とするより「十三夜」であることは月の引力が13歳の時から加わってくるからである。地震の発生もしばしば月齢13歳の時に発震するからだ。恐らく陣痛も13歳の頃から始まるのではないだろうか。

村の若妻達が集まって長老達からいろいろ教えてもらう行事に「十九夜」さんがある。大きな‘じゅず’を廻して、こぶ(結び目)が来ると頭を下げるという行事も又お産の神様を祀るものなのだろうか。「十九夜」さんの意味はまだ良くわかりません。



9500万人のポピュラーリクエ... 投稿者:D/J 投稿日:2007/02/12(Mon) 21:51 No.17
   9500万人のポピュラーリクエスト

昭和39年3月26日の
   リクエスト・ランキング15位から1位まで

1、恋はすばやく      ガス・バッカス
2、レッメカ・メモリ    クリクド・リチャード
3、恋のパームスプリン   トロイドナヒュー
4、プリーズ・プリーズ・ミー ザ・ビートルズ
5、ワシントン・スクエア  フリーストンパーズ
6、抱きしめたい      ザ・ビートルズ
7、ぼくのマショナロ    ジョニーシンバル
8、素敵なメモリー     ジョニーソマーズ
9、夢のお月様       ザ・ベルベツ
10、素敵なガールハント
11、サンフランシスコの思い出
12、花はどこへ行った
13、ラ・ノビエ
14、プリンセス・プリンセス
15、カムバック・ツーミー

さて、皆さんいくつ覚えておいででしょう?
(当時のラジオからの聞き書きなので間違いもあるかも)





空中遊泳 投稿者:ブルーベリー 投稿日:2007/01/15(Mon) 18:03 No.15
子供の頃、ブランコが得意でした。(思い込み)
神社の小さな公園で立ちこぎブランコをしていました。
大きく大きく、もっと大きく、今日も快調と、
突然手がはずれ、ひゅーと空中遊泳し、ドスンとイナバウアー状態で着地です。
胸が圧迫されたのか、窒息状態で息ができなく、死ぬかと思いました。
それでも好きなものには勝てず、その後もブランコ遊びはやめることができませんでした。



Re: 空中遊泳 木の葉 - 2007/01/18(Thu) 00:13 No.16  

似たような経験をしました。八幡神社にあったブランコに夕暮れ時よくのっていました。少し離れた映画館からフランク永井≠フ歌「赤い灯〜青い灯〜ともる街角で〜…」という歌謡曲が聞こえていました。ブランコにのって勢いづいて落ちたところまでは似たような経験ですが、私の場合は落っこちたところに、戻ってきたブランコが額にあたり、1センチほどのその傷は半世紀経った今でもウッスラと残っています。そしてやっぱり、その後もこりる事無くブランコに乗って風と遊びました。


年忘れおもしろ話<先送り> 投稿者:蟹の爪 投稿日:2006/12/30(Sat) 20:47 No.14
つぶれかかった寺の本堂をどうするかについて、檀家全員集まって話し合いが持たれた。その結果建て直すしかないという結論にいたり、各家が毎月1万円出して積み立てていくことに決まった。期間はおよそ30年ほど。しかしその前に台風の直撃でもあって倒壊したらどうするのか、ということで様々な意見が交わされたが、これといった妙案がないまま息づまった空気に包まれていた・・・総代が、30年後いうたらわしは生きてないなあ・・・誰かがわしも生きてないなあ・・・あちこちでわしも、わしもの声。50歳の忠太郎さんがわしも生きてないなあ・・・すると80歳の寅蔵じいさんが言った。忠太郎さんあんたは生きてるで、あんたん所は長生きの筋やから30年後はぴんぴんして生きてまっせ。今度は40歳の時雄さんが私は微妙なところやなあ・・・また寅蔵じいさんが、あんたはまだまだ若いから充分生きてまっせ。そんなこんなで生きてる生きてないという話が盛りあがったところで、総代が最後にまあ・・わしらは30年後はみんな死んで、おらんことにして本堂のことは息子らの代に考えてもらうことにしょうやないか、ということでこの一件は先送りすることで落着した。


けんぷんなし 投稿者:よりみち 投稿日:2006/11/22(Wed) 20:31 No.13
小学校5,6年生の頃だったと思う。

普段は口も聞いた事の無い同級生が、「一緒に帰ろう」と言ってきた。

帰り道の方向が同じなので、一緒に帰ることにした。

いつもの大きな木に囲まれた農家の前に来たとき、同級生がしゃがみこんで何かを拾い「これ、食べれるんだよ」と、小さな木の枝のようなものを見せた。

自分で噛んでみせたので、私も噛んでみた。

何と、熟した梨の味がした。

カルチャーショックで何本か家に持ち帰った記憶があるが、家族の反応は覚えていない。

数ヵ月後、その農家の周りの木が切り倒されてしまい、立派な塀になってしまった。

大人になって、その同級生の残念な気持ちが分かるような気がする。

もう、何十年もその味に出会っていないが、思い出すたびに鮮やかにその味が思い出される。



おかめどじょう 投稿者:喜三郎 投稿日:2006/11/04(Sat) 12:12 No.12
近くの小川にドジョウすくいに行く。その獲物は、小さいドジョウやらカニ、そして小ブナなどだ。大物は小指ほどの欧州ドジョウだ。その獲物がとれたときはザルの底で音をたててはねている。
小学校の養護室の先生にオカメドジョウというあだなの先生がいた。この先生、子供達には人気があっていつも養護室はにぎやかだった。オカメドジョウって何だろうと思っていた。
ある日、ドジョウをすくっていると、ハヤッ子でもないフナでもない魚がザルの底に横たわっていた。ドジョウのように跳ねるでもなく、べたーと横たわって口をパクパクしていた。大きな目、マッコウクジラのような額、そして特徴のある口元。初めての獲物でビンの中に放して外から眺めてみると、あの養護の先生の顔が浮かんできた。まるで、あの先生が急に変身したようだ。ドジョウというよりハヤッ子に近く泳ぎも敏しょうだ。表情も品格があり、キッとにらむ目は、あの擁護の先生の目だ。そうか、やっぱりオカメドジョウだと得心した。



水車小屋 投稿者:よりみち 投稿日:2006/10/27(Fri) 16:58 No.11
小学校3〜4年生頃だったと思います。

同級生と、今まで行ったことのない遠回りの帰り道、

わらぶき屋根の小さな水車小屋を見つけました。

あいにく、水車は止まっていました。

戸板のすき間からのぞくと、臼のようなものが2つありました。

「一度回っているところをみたいものだ」と何度か行ってみましたが動いていませんでした。

久しぶりに行ったところ、何と小さなお豆腐屋さんになっていました。

農家の中にぽつんと一軒お店屋さんとは、何か変な感じがしました。

水車小屋が何をする所か、遥か後の高校生になってからでした。

お豆腐屋さんは、今は自動車部品組立工場になっています。



石に関心を 投稿者:喜三郎 投稿日:2006/10/24(Tue) 09:54 No.9
石を祀ってあるところが多い。その場所は決して仰々しい神

社ではないが、何か効能がある。小さいとき、小海町の相木

川と千曲川の合流するところに、大きな石があった。その石

は子供がよじ登るほどのものであったから、直径は3メート

ルを超えているのだと思う。その石の上には、小さな石が沢

山あって、子供たちはイボが手にできると、その石でこする

とイボは消えていくと言われていた。私も小さいときイボが

沢山できて、その石の上に座って石で手をこすったのを思い

出す。その言い伝えどおりイボが消えたかどうかは覚えてい

ないが、イボを気にしなくなったのは、その効果があったの

かもしれない。石尊山という名前の地名があちこちにある。

たいてい水の良く出ているところか岩のあるところのよう

だ。岩屋といわれる神社があるが、たいてい岩や石の上に建

ててある。

昔から石の信仰がある。そこからは何か石の持つ力が感じら

れる。全国の岩、および石の信仰を知るのも面白い。



あの頃 投稿者:山風 投稿日:2006/10/20(Fri) 11:02 No.8
昭和30年代 東蒲原郡 母と弟と8歳の私と三人で里山へ

杉っ葉ひろいに行った。風呂の焚きつけにするのだ。田んぼ

の脇道を通り緩やかな坂を上ると、ひんやり暗い杉の林があ

った。きまって、おにぎりと黒飴を持ってでかけた。おちて

いる杉っ葉をひろい、かます(穀物や石炭などを入れる藁む

しろで作った袋)に入れ、足でぎゅっ、ぎゅっと押し込む。

かますが膨れたお餅のような形に一杯になると、きゃっきゃ

と笑いながら、かますと一緒に転がるように坂道をかけおり

る。遊びと暮らしの助けが重なっている日々だった。



A系  あきば系 →元祖オタク 投稿者:よりみち 投稿日:2006/10/18(Wed) 22:27 No.5
新聞を見ていたら、団塊世代の真空管アンプ製作の記事が出ていました。
私も、時間があればまた真空管アンプ製作をと、永らく思っていたので懐かしく読みました。
記事の人たちみたいなプロ級ではないのですが、10代後半から20代にかけ、オーデオに興味を持って自作アンプを3台製作しています。
スピーカーも単体で購入し、板に取り付けたり、ボックスを作ったりしていました。
年に1,2回は秋葉原の電気街に一人で出かけ、地方では手に入らない部品調達をしていました。
もう、あれから30年以上もたちますが、あの「小さな、小さなお店」が立ち並ぶ長屋のようなビルはまだあるのでしょうか。
「ご主人様お帰りなさいませ」 「萌え」なんての街になってしまったようで、時の流れを感じます。



雑魚(こざかな) 投稿者:喜三郎 投稿日:2006/10/13(Fri) 11:47 No.4
初めて釣った魚はニガッバヤであった。畑八村の千曲川は八ヶ岳から流れこんでくる大石川と大岳川が合流している。つり橋が上流に一つ。村の中心に長いつり橋と短いつり橋とがあった。その二つの橋の間にポプラの巨木が二本そびえていた。川筋は東に流れているのが中川原、次に小さい流れの清水端、そして本流の千曲川であった。小海線の穂積駅から家に行くまで、二つのつり橋を渡る。時は初夏、母は背に弟をおぶい、二つ上の兄は小学校の二年生で学校。そして私はハンミョウ(道しるべ)のように母の前を行ったりきたりしている。中川原のつり橋から川を見下ろすと何と、三年鯉の群れが、数十匹群れをなしている。どうしても釣りたい。小学校に入る前、6歳の私は思った。家に帰って釣り道具を探すがテングスがない、棹もない、釣り針だけは何とかある。結び方も知らない。そこでボヤの枝を取り出しその先に白い木綿の糸をくくり付け釣り針を何とかコブ結びで付けた。えさは何にするのかも知らない私はお釜の中から飯粒を取り出してポケットに入れ、あの三年鯉の群れている中川原に行った。蛇かごを降りて水辺に行くと針にご飯粒を付けて水面に投げた。木綿の糸は中々沈んでいかず水面を流れるだけだった。それは、おもりを付けるのを知らなかったのだ。そんな事で三年鯉が釣れる訳がない。しばらく枝の棹を遊んでいると、その糸が水の中に沈んでいくではないか。一瞬何が起こったのか分からなかったが、棹を上げるとピチピチと糸の先に魚がいるではないか。もちろん三年鯉ではない。ハヤでもないニガッバヤである。それでも6歳の僕には誇らしい収穫であった。ニガッバヤを針の先に付けたまま長い大つり橋の上をスキップを踏みながら帰って行った。勿論その収穫を母に見せるために。


おまつり 投稿者:よりみち 投稿日:2006/10/09(Mon) 09:44 No.3
玉手箱ではなく、押入れの隅っこのおもちゃ箱ですが、よろしくおねがいします。
今日も、秋祭りか運動会か遠く近く花火の音がします。
昭和20年代、私の小さな頃住んでいた所は、50数軒の集落でした。
市に隣接していたためか、勤め人や商店の方が多かったです。
村のはずれに、隣村の小さな庚申さんが祭られていました。
ある年、「庚申さんのお祭りに私たちも参加しよう」と誰かが言い出したようです。
祭り当日、村のメイン道路の真ん中で、大人も子供も入り混じり、綱引きが行われました。
メイン道路といっても舗装もされず、村にオート三輪が1台あるだけの時代、道路が運動場でもだれも何も言わない。
綱引きの後は、大人は酒を飲み、女性や子供はおにぎりをほおばり、和気あいあいの雰囲気でした。
よき時代だったと時々思い出します。